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「土葬は異文化?」宮城県・村井知事の発言から見える、日本の埋葬文化の記憶

宮城県知事の土葬墓地発言と日本の葬送文化に関する検証

村井知事の「土葬墓地」整備発言とその背景

宮城県の村井嘉浩知事は、イスラム教徒など土葬を必要とする人々のために、県内に土葬が可能な墓地を整備する計画を表明しました。この計画は、日本で働くイスラム圏出身者(例えばインドネシアからの労働者)を受け入れる中で、「安心して暮らせる環境」の一環として提案されたものです。村井知事は2024年末の県議会で「全国の土葬墓地を調査し、県内での実現に向け検討したい」と述べ、行政主導での土葬墓地設置に意欲を示しました。この動きに対しては県民から賛否の声が寄せられ、特にSNS上ではイスラム教徒への偏見や環境汚染への懸念などの批判が相次いだと報じられています。

こうした批判に対し、村井知事は2025年3月5日の記者会見で次のように反論しました:

  • 「元々、日本は土葬文化であり…皇室もかつては土葬されていた」
    知事は、日本自身が歴史的に土葬を行ってきた文化を持つことを指摘し、土葬墓地整備は特定の宗教だけの問題ではないと述べました。また「キリスト教も土葬が基本」と言及し、宗教に関係なく土葬のニーズに行政が応える必要性を強調しています。皇室も昭和以前には土葬であった例があり(例: 明治天皇・大正天皇は土葬)、日本の伝統として土葬が存在していたという発言です。
  • 「批判があってもこれはやらなければならない」
    村井知事は、多文化共生社会を掲げながら葬送習慣への配慮が欠けていた点を問題視し、「いろいろネット上ではたたかれているが、私は必要なことだと主張し続けたい」と述べています。環境面の不安に対しても、「世界には国全体がほぼ土葬しているところもある。土葬=環境汚染というのは行き過ぎではないか」と反論し、公衆衛生への影響は科学的検証が必要だとしました。

以上のように、村井知事の発言は「日本の歴史や他宗教の例も踏まえ、土葬の受容を進めるべき」との論旨でした。この発言内容は朝日新聞やKHB東日本放送など複数のメディアで報じられており、該当のニュース記事や映像クリップから詳細を確認できます。例えば、朝日新聞は知事の会見発言を詳報し、河北新報オンライン(YouTube配信)でも県議会での議論の様子が伝えられています。

以下では、この発言に関連して言及された歴史的主張について、事実関係を検証します。具体的には、(1)日本における土葬の主流性、(2)庶民の墓制の歴史、(3)葬儀を仏教・祭事を神道が担うようになった経緯について、歴史的資料や学術的見解をもとに解説します。

1. 日本はもともと土葬が主流であったのか

結論から言えば、「はい、歴史的に見て日本では長らく土葬が主流でした」。火葬が一般化するのは比較的近代のことです。古代から中世にかけて、日本人は亡骸を棺に納めてそのまま土中に葬る土葬を慣行としており、火葬が一般に広まったのは江戸時代後期から明治時代初期とされています。東京博善など葬祭業の調査によれば、「かつての日本では土葬が主流でした。死後に火葬する習慣が一般的になったのは、江戸後期~明治初期といわれています」。実際、江戸時代までは地域によって土葬・火葬両方の習慣がありましたが、明治以降、衛生面や土地事情から火葬が全国的に定着していきました。現代では火葬率がほぼ100%に達していますが、これは歴史の中では新しい現象です。

歴史的な推移をもう少し詳しく見ると、奈良時代に仏教の伝来とともに火葬の風習が一部で導入されました。例えば飛鳥時代(7世紀後半)に日本初の火葬が行われた記録があり、古墳時代の遺跡にも遺体埋葬後に石室を焼いた跡(かまど塚)が見られます。しかし、これらは限定的な例で、庶民レベルで火葬が広がるのは江戸時代中期以降です。江戸時代には寺院の境内に火葬小屋が整備され、都市部を中心に火葬が次第に普及しました。とはいえ当時の火葬は煙や臭気の問題もあって抵抗も強く、地方や習俗によっては土葬が続けられています。幕末から明治期にかけて、政府は近代化と衛生観念の向上から火葬を推奨・整備し、結果として20世紀前半には火葬が日本全国の標準となりました。

以上より、「日本は元々土葬が主流だった」という命題は事実としておおむね正しいと言えます。村井知事が会見で触れた「皇室もかつては土葬」という点についても、歴代天皇の葬送を見ると明治以前は土葬(もしくは風葬)された例が多く確認できます。例えば奈良時代の天武・持統天皇合葬陵(八角墳)や、江戸時代の光格天皇陵など、土中に埋葬された皇族陵墓が残っています(明治以降は火葬が導入され、昭和天皇は火葬)。このように日本における土葬の伝統は長く、火葬文化への転換は近代以降の出来事であることが裏付けられます。

2. 一般庶民には墓らしい墓が存在しなかった時代があったのか

こちらも歴史的事実として概ね正しい指摘です。日本では長い間、立派な墓石や先祖代々の墓を持てたのは上流階級に限られ、庶民は無縁墓や共同墓地に葬られていました。例えば古墳時代には権力者が巨大墳墓を築きましたが、一般の人々はそのような「墓らしい墓」を持つことはできませんでした。平安時代以降も、貴族や武家は石塔や五輪塔など個人墓を造営しましたが、庶民は遺体を山野に捨て置く遺棄葬(風葬)や、土中に埋めるだけの簡素な埋葬が多く、墓石を建てる風習はありませんでした。

特に江戸時代以前、庶民は共同墓地(無縁墓地)にまとめて埋葬されるのが一般的でした。石碑を建てることが許されたのは有力な貴族・武士だけで、しかも当時の墓は現代のような家族単位ではなく、個人や夫婦単位で小規模な石塔を建てる程度でした。庶民は経済的・身分的制約から自前の墓石や墓所を持たず、墓標すら立てられないことも多かったのです。一部には墓を建てること自体が庶民に禁じられていた時期もあったとする指摘もあります。

転機が訪れるのは江戸時代中期以降です。江戸時代になると家制度の概念が浸透し、「○○家之墓」のような家単位の墓を建立する習慣が都市部から広まっていきました。とはいえ、それが庶民全般に普及したのはかなり後年で、経済的な豊かさや石材の安価な供給が整った明治~大正以降にようやく一般化しました。ある資料によれば、現在見られるような四角い和型墓石に「先祖代々之墓」と刻んで建立する風習は大正時代に登場し、広く一般庶民が自分の墓を持つようになったのは昭和以降だとされています。実際、江戸期までは「墓を持たない」のが庶民の当たり前で、家族墓が全国的に定着した歴史はせいぜいここ数百年しかありません。

したがって、「一般の人々に墓らしい墓がなかった時代」は確かに存在しました。江戸時代以前の庶民層の埋葬は、墓石や墓碑のない土葬・風葬が中心であり、今日のような整ったお墓参りの文化は近代になって形作られたものなのです。この点は歴史学や民俗学の文献からも支持されており、墓制の変遷をひもとけば明らかです。

3. 仏教が葬式を担い、神道(神社)が神事を担うという分離は明治時代に起きたのか

この主張は概ね正しいが、いくつか補足が必要です。現在一般的な感覚として、「葬式はお寺(仏教)、結婚式や七五三などハレの儀式は神社(神道)」という役割分担があります。しかし、これは日本の伝統的な宗教観から自ずと生まれた慣習であり、明治時代に制度的に確立・推進された側面もあります。

もともと日本では、奈良時代以降に仏教が広まってから**「死」や「葬送」は仏教僧侶の役割となっていきました。神道が死を忌避する(「穢れ」とみなす)思想を持つのに対し、仏教は死を穢れとは捉えず輪廻転生や極楽往生の教義で死者を送り出すため、人々は死者供養を仏教に託すようになったのです。平安~鎌倉時代には貴族も庶民も仏式の葬儀を行う例が見られ、江戸時代には寺請制度(檀家制度)によって庶民は自分の菩提寺で葬式を行う**ことが定着しました。いわゆる「葬式仏教」の基盤は江戸期までに形成されていたのです。

この状況を大きく変えようとしたのが明治維新政府の宗教政策でした。明治政府は国家神道を樹立するため、1868年に神仏分離令を発し、神社と寺院の分離を強行します。その一環として 仏式の葬儀(仏葬)を廃して神道の葬儀(神葬祭)に改める方針が打ち出されました。各地で「廃仏毀釈」と呼ばれる仏教排斥運動が起こり、寺院から檀家を奪って廃寺にする動きさえあったのです。明治初期には天皇・皇族の葬儀も神式(例:明治天皇の大葬は神葬祭)に変更されました。この意味で、「葬式は仏教、神事(公式儀礼)は神道」という役割分担が明治期に再編されたのは事実です。

しかし、現実には明治政府の神葬祭推進は挫折しました。仏式葬儀はすでに民衆の生活慣習に深く根付いており、人々の抵抗は激烈でした。祖先の霊を弔うという信仰(先祖供養)は仏教のお坊さんと仏壇・位牌の体系に組み込まれており、それを突然神道式に切り替えることは極めて困難だったのです。結局、明治政府も強硬な廃仏政策を緩め、以後は国の公式行事や人生儀礼(節句や結婚式など)を神道中心に、庶民の葬礼は引き続き仏教中心に任せる形へと落ち着いていきました。この結果が、現在見られる**「葬式仏教・宮中祭祀神道」的な分離**とも言えます。

補足すると、神道が葬儀を苦手とする背景には前述の穢れ観があり、神社に墓地がないのもそのためです。一方、仏教は「死=新たな生の門出」と捉え積極的に葬送儀礼を発展させました。中世以降、日本人は「49日で仏(ほとけ)になり、33年で神(祖霊)になる」という考え方も持つようになりますが、これも仏教と神道の習合による独特の死生観です。このように江戸以前から実質的に機能分担が存在していたものの、それを公的に仕分け・強調したのが明治だったと言えるでしょう。したがって「仏教が葬式、神社が祭事」という分離は、明治期の神仏分離政策によって明確化・定着したと評価できます。

以上を踏まえると、村井知事の発言に関連した歴史的主張3点はいずれも概ね史実に沿った内容でした。ただし、日本の葬送文化は地域や時代によって多様性があるため、「主流だった」「なかった」「明治に起きた」といった表現は簡略化を伴います。実際には徐々に変化した慣習や、政策による変遷があります。今回の宮城県における土葬墓地整備の議論は、そのような日本の葬送史を踏まえ、多文化共生の観点から伝統と現代ニーズの折り合いを模索するものと言えるでしょう。

参考資料・記事リンク:

  • 村井嘉浩知事の会見発言詳細(朝日新聞デジタル)
  • 宮城県による公式記者会見録(令和7年3月5日)
  • 地方ニュース映像(KHB東日本放送)
  • 日本における火葬の歴史(葬祭情報サイト)
  • 日本の墓制の変遷(供養墓情報サイト)
  • 江戸~明治の神仏分離と葬儀(葬儀コラム)
  • 神道と仏教の葬送観の違い(エンディング解説記事)