連日、熊の出没ニュースが続いています。
被害も深刻化し、命を落とす人まで出ている。
「危険だから駆除すべきだ」という声が高まるのも無理はありません。
しかし、熊を絶滅させたらすべてが解決するのか――
そう単純な話ではないようです。
今回は、「もし熊が絶滅したらどうなるか」を、生態学と社会の両面から考えてみます。
熊(ヒグマ・ツキノワグマ)は、単なる肉食獣ではありません。
彼らは森の上位捕食者であり、種子の運び手でもあるという、二重の役割を担っています。
熊は秋になると、ドングリやブナ、クリなどの木の実を大量に食べます。
そして糞を通じて、その種を遠くまでまき散らすのです。
熊がいなくなると――
・種が親木の近くにしか落ちない
・多様な樹種の分布が偏る
・「樹種の北上・高所移動」が止まり、
気候変動に対応できない森になる
やがて、森は更新力を失い、老木だけが残る静止した森林へと変わっていきます。
熊はイノシシやシカを食べるわけではありません。
それでも、熊の存在が中型獣たちの行動を抑制しています。
熊がいなくなると、イノシシ・シカ・キツネ・タヌキなどが増え、
草木の食害、農作物被害、ダニ媒介感染症のリスクが拡大します。
これを**中位捕食者解放効果(mesopredator release)**と呼びます。
つまり、熊が“いない”という事実そのものが、森の均衡を崩すのです。
熊の生息域は、人と自然のあいだの緩衝地帯でした。
熊がいることで、人は山を「畏れ」「敬う」距離感を保ってきたのです。
しかし熊が絶滅すれば――
・山林のレジャー開発や伐採が進む
・森の保水力が失われ、洪水や土砂災害が増える
・“熊害”は減っても、“自然災害”が増える
熊は、人間が自然と適切な距離を保つための象徴的な境界でもあるのです。
日本各地では、熊は山の神・来訪者として信仰されてきました。
アイヌのイヨマンテ、東北の熊送り、山岳信仰の熊神――
熊は「自然と人の交わり」の象徴でした。
熊を絶滅させることは、こうした自然観と倫理の喪失でもあります。
それは、
「危険だから殺す」という人間中心主義の極点。
自然を支配しようとする傲慢の到達点。
とも言えるでしょう。
熊の絶滅は、現実的にも多くの副作用をもたらします。
生態系崩壊による農林被害・感染症の拡大
山村観光や狩猟文化の衰退
生物多様性条約への違反・国際的批判
つまり、熊の消失は「安全」どころか、多面的な不安定を生むのです。
私たちが目指すべきは、熊を排除することではありません。
人と熊の距離を再設計することです。
餌付け・ゴミの放置を防ぐ
電気柵・森の緩衝帯を整える
人が入らない森をつくる
過疎地域の再生と森林管理の両立
熊問題とは、結局「人が山へ侵入しすぎたこと」の結果です。
熊を殺しても、それは境界を忘れた人間の問題を覆い隠すだけです。
ここから少し視点を広げてみましょう。
熊が担っていた“種子の運び手”という役割は、
森における「世代交代」を支える存在でもありました。
熊がいなくなると――
・種は動かない
・森の更新が止まる
・古木ばかりの静止した森になる
それはまるで、
若者が減り、年長者だけが残る社会のようです。
森の少子高齢化――
それが熊を失ったあとの風景なのです。
気候変動の時代に、植物が「北へ・高地へ」移動するのは生き残るためです。
熊がいなくなれば、その“移動力”が止まります。
それは、人間社会における――
・若者の移動の減少
・閉鎖的な地域社会
・変化への適応力の低下
と似ています。
熊は、森の「流動性(mobility)」の象徴でした。
そして現代社会では、異端者・移住者・創造者が、同じような役割を担っていたのです。
静止した森は、一見穏やかに見えます。
しかしその静けさは、生命の流れが止まった死の静寂です。
森の現象 | 社会の現象 |
---|---|
熊がいなくなる | 若者がいなくなる |
種子が動かない | 人が動かない |
樹種の偏り | 地方の固定化 |
多様性の喪失 | 文化・創造力の喪失 |
熊の絶滅とは、森の少子高齢化。
それは森だけでなく、私たち自身の社会にも静かに重なる現象です。
熊とは、森の若者性であり、流動性であり、未来そのものです。
彼らを失うことは、森が変化する力を失うこと。
そして私たちが、「自然と共に変わる力」を失うことです。
熊の絶滅は、
自然の終わりではなく、人間の想像力の終わりを意味するのかもしれません。
観点 | 熊絶滅による主な影響 |
---|---|
生態系 | 森林再生の停滞・中型動物の増加・病害の拡大 |
社会 | 山林開発の加速・災害リスク増加 |
文化 | 自然観・信仰・倫理の喪失 |
国際的 | 生物多様性条約・倫理的批判 |
熊は「恐れ」ではなく「秩序」そのもの。
森の均衡と、人間の謙虚さをつなぐ最後の境界線なのです。